五十沢川本流の遡行は当時の私にとって最大限の冒険的試みであった。前年、下部ゴルジュ帯を遡行するも、中部ゴルジュ帯入口で大雨増水により敗退。15分程度で水位が5m以上も上昇する場面を目の当たりにした。(→下部ゴルジュ帯の記録を参照)
ゴルジュ内での増水は致命的。まさに命懸けの遡行になることを覚悟してこの沢に臨んだのを覚えている。9年の歳月を経てやっとこの沢の記録を残すに至った。
印象的なシーンは今でも昨日のことにように覚えているが、薄い記憶は欠落してしまったものもある。書き残した遡行図と写真を頼りに記憶の糸を辿り、この記録を書いている。そんな曖昧な記録だが、この沢がどういう沢なのかを知ってもらえれば幸いである。
キャンプ場から長い林道&登山道を歩き取水堰堤から入渓する。いわゆる中部ゴルジュ帯からのスタートである。流れの速い瀞を携えた最初の1m滝の突破は、技術的な困難さにおいて今遡行中最も厳しかったと言える。
泳いで水流右壁にボルトを浅打ちし、辛うじてアブミを張る。不安定な状態で何とか落ち口上に垂れた残置スリングを利用して突破した。泳ぎながらジャンピングを打ち続ける作業は体力の消耗が激しく、何度も泳ぎ戻っては体勢を立て直し、地道な作業を繰り返した。
先には廊下が続き、複雑に浸食された白い岩肌が美しい。30mの廊下を泳ぎ切ると、わずか50cmの落ち込みだが通過不能となる。左岸のルンゼから岩棚に上がり、斜め懸垂25mでその上の5m滝まで巻いた。
沢は右に屈曲し、第2の核心「夫婦滝2段3m」となる。直登は不可(改めて写真を見ると直登できるのではないかという想いに駆られるが・・)。右岸から巻く。
急なルンゼを登り、高度感のある側壁トラバース。10~15m程の短い懸垂下降3ピッチで沢床に戻る。登りとトラバースはフリーソロだったので緊張した。
一旦落ち着くが、石橋5m滝などがあり見所は尽きない。15m廊下を持つ5m滝から上部ゴルジュ帯が始まる。明るい中部ゴルジュ帯に比べ、深く狭く暗い井戸底のようなゴルジュが続く。
亀裂のように細く浸食され、過去にこのスケールでこれ程の狭さを持ったゴルジュはお目に掛かったことがない。40mの長大な廊下を泳ぎ渡り、続く30m廊下の先に落ちる5m滝を左壁から越えた後、いよいよゴルジュ最深部へと入った。
あまりの狭さにザックが引っ掛かるほどで、最狭部の幅は何と30cm程しかない。細い沢床は足を並べて置くことすらできず、交互に足を踏み出し最狭部を通過する。
こんな所では絶望的にさえ聞こえる滝の音が、奥で鳴り響いている。この先が通過不能な事は行かずして容易に想像できるが、やはりこの目で確認しておきたい。恐る恐る先へと進むと、予想通り険悪な7m滝に行く手を阻まれた。
一見して直登不可。しかしそんな滝でも唯一の弱点として、右岸側壁に斜めのクラックが走っている。落ち口まで辛うじて続くそのクラックを見て、「もしかしたら行けるかもしれない。」という考えが頭をよぎる。勝算は少なそうだが可能な限り水線突破は狙いたい。
ハーケン連打でアブミトラバースを開始する。しかし暗いゴルジュでの孤軍奮闘もむなしく、徐々にクラックが細くなりハーケンを受け付けなくなってしまった。無理にこれ以上進んで危険な状態に陥るのを怖れ、残置を1本残してやむなく敗退。
結局5m滝落ち口から右岸を巻くこととなったが、この巻きも決して楽ではなかった。藪に入るまでの10m程の岩壁は異常に脆く、ホールド・スタンス全てが浮石と言っても過言ではない状態。
支点が取れないので仕方なくフリーソロで越えたが、グラグラ動く浮石を使っての登攀はまるでロシアンルーレットをしているかのような緊張感があった。その時の光景は9年経った今でもはっきり脳裏に焼き付いている。
緑の回廊となったゴルジュはさらに入り組んだ浸食を見せ、どこまでも遡行者を魅了し続ける。上部ゴルジュ帯を抜けた後も手強い滝が次々と現れ、決して油断はできない。
8m滝の巻きではズルズルの草付となり、危うく滑り落ちかけた。四つん這いになって四肢のフリクションを駆使し、かろうじて危機を脱する。
最後は広大な露岩帯を詰め上がり、ついに五十沢川を足元にすることができた。
以上、核心となった場所を中心に書き記したので、「怖く危ない沢」という印象が付いたかもしれない。確かに気を抜けば命に関わる場面もあったが、この沢の素晴らしさはそれでも尚余りある。
滑らかで複雑に浸食されたゴルジュは、時には至上の美しさを見せ、また時に厳しい試練として立ちはだかる。技術、行程、水量、天候など不安材料は尽きないが、それゆえにやりがいのある遡行になることは間違いないだろう。
今回記憶を掘り起こして行く内に、若かりし頃の情熱が次々と蘇って来た。果たして今の自分にあの頃のような冒険ができているだろうか?
環境は変わったがただ一つの人生、できる限り悔いは残したくない。自分にとって過去は越えて行かなければならないもの。越えられない過去に未来はない。
過去の自分に負けないために今年も頑張って行こう。
(2009年7月記)