数少ない記録を見る限り、「脆く支点の取れない登攀」「進退窮まる危険な巻き」「常に付きまとう落石の恐怖」など、とにかく危険な沢だと印象付ける記述が多い。
ここまで評される沢とは一体どれ程のものなのか・・。
「怖いけど行ってみたい」、いつもの悪い虫が私を誘惑する。落石などの自分で制御できない要素が多い分、いつもより遥かに危険な遡行になるだろう。
「運が悪ければ死ぬかもしれない」、そんな不安がプレッシャーとしてのし掛かる。
しかし、沢をやる限りいつだってそのリスクを背負っているのは同じだ。もはや「恐怖心を上回る好奇心」を押さえる事はできない。
果たしてこの遡行の先に待っているのは天国か地獄か・・。
「大きな期待と不安」、「行きたい自分と止めたい自分」、複雑な心境に折り合いを付け、「運命の谷」へと向かった。
林道のゲートを裏技で開け、一気に終点まで入る。大幅な時間の節約に成功。
現在ゲートから先は堰堤の工事車両のみが入っているようだが、林道終点はさらに奥なので工事組とバッティングする事はない。
閉鎖するには惜しいほどしっかりとした車道である。
終点から道なりに徒歩5分。過去の観光地としての名残が現れ、階段を降りて入渓となる。
早々に両岸狭まりゴルジュとなるが、「友知らず」と呼ばれた難所も今や平凡なゴーロであっさりと通過する。
「雲竜滝」と呼ばれる美しい連瀑を左岸に見ると、ゴルジュはさらに深みへと入っていく。
突然、正面にとてつもなく巨大な岩が現れ、谷が完全に塞がれた。これが「胎内滝」であろうか・・。
水流は左を流れ、3mCS滝の上部には冬期の残置物と思われるプレート梯子が垂れている。
左に積み重なった岩を登り、暗い大岩のトンネルを潜ると裏側に抜けることができた。まさに「胎内潜り」。名の由来に納得である。
4mCS滝は右から簡単に巻けそうだが、あえて左壁を直登する。適度な難しさで楽しい。
奥へ進めば進むほど、集塊岩の壁に囲まれた異質な空間が広がり、どんどん現実から遠ざかっていく気分になる。
入り組んだゴルジュに現れる小滝を次々と越えていき、「Y字峡」へと至った。
正面の七滝沢からは「黒岩滝15m」が落ち、本流のアカナ沢は右に屈曲。恐ろしく深いゴルジュとなり、両岸切り立った側壁は100m以上。
巻きなど全く考えられない様相に、登れない滝が出てこないことをただ祈るばかりである。
「関東周辺の沢」によると、この先「大鹿滝」までは特に困難はない筈だが、既に遥か昔の記録。脆く変化の激しい沢において当てになるとは思えない。
案の定、突然ゴルジュを堰き止めるような8mCS滝が現れた。ゴルジュに挟まったCSが自然の堰堤の役割を果たし、土砂の流出を防いでいるようだ。
下部に詰まった土砂の隙間から水が噴き出し、今にも決壊しそうで恐ろしい。もしこの栓(CS)が抜けたら、この素晴らしいゴルジュは埋まってしまうのだろうか・・。
そんな心配はさておき、まずはここを越えられるかどうかが問題である。激しくハングし、全く取り付くシマのないこの滝をどう処理すればいいと言うのだ。
巻きは不可能という先入観から、もはや直登することしか頭にない私はひたすら滝の弱点を探る。
しかしどれだけ目を凝らしてもやはり登れそうに見えない。最後の手段としてハンマー投げを試みるが、全く届く気配なし・・。
諦めて七滝沢の遡行に切り替える考えが頭をよぎる。しかし、こんな所まで来て敗退したくない。
最後の悪あがきで、完全に思考から外していた「巻き」の可能性に望みを託す。
まずは右岸に目をやると、異常に脆そうな壁が唯一の弱点として上部へ続くが、冷静に考えてここを登るのはまず有り得ない。
次に左岸。何と、よく見れば緩い草付きから上部のバンドに上がれそうではないか!
「巻けるかもしれない・・」、一筋の光明が見えたのでとにかく駄目元で取り付いてみる。上がってみるとバンドは意外なほど傾斜が緩く、踏跡もあり、あっさりと巻けてしまった。
先程までの奮闘は何だったんだと拍子抜けする。先入観とは全く恐ろしいものである。
気を取り直して先へ進むと、荒涼としたガレに囲まれた大空間に飛び出した。視界の中央には「大鹿滝40m」が落ちている。
名前はともかく、圧倒的な崩壊壁に囲まれたこの滝は、とにかく格好良かった。
下段15m、中段5m、上段20mの3段から成り、下段は左のガレから左壁に取り付き直登。そのまま中段も越え、上段に出る。
上段の滝は柱状節理に囲まれた美しい滝である。
思ったより傾斜が緩いので、そのまま左壁をフリーソロで行くことにする。
中間部の傾斜が緩む所までの10m程が核心だが、ホールドはしっかりしていて登り易い。・・はずであったが、寒さで指がかじかみ、一気に際どい登攀へと変貌した。
自分の腕とは思えないほど力が入らず、ホールドを握っても「スゥ~」と力が抜けてしまう。まるで呪いでも掛かっているかのようである。
登っている途中で突然手が離れそうで、思い切った動きができない。
一番の核心部で最悪の状況に陥り、止むを得ず剥がれそうなブロックに全体重をかけてレスト。
手を振ったり握ったりして何とか回復させようとするが、周囲の気温が低いためか一向に良くならない。
あと2m登れば傾斜の緩い部分に上がれるので、意を決して力の入らない腕で登ることにする。
声を上げて気合を入れ、意図的にアドレナリン放出。できるだけ足に頼った登りで一気にムーブをこなし、何とか核心を抜けることができた。
これほど力の入らなくなる状況は始めてだったので、正直かなりあせった。気温が低い時の登攀が油断ならないことを悟る。
すぐ上にはヒョングリ滝10mが続き、アカナ沢はなかなか気を抜かせてはくれない。
相変わらず力の入らない腕はほとんど役に立たず、スタンスを慎重に選んで水流右を直登する。
息付く間もなく再び大岩が谷を塞ぐ。岩の右側には5m滝が落ち、直登するにはシャワークライムするしかない。
体力消耗を避けるべく大岩正面の直上を試みる。出だしの取り付きから悪く、沢タビには厳しいスタンスが続く。
空身になって滑りそうなスタンスに耐えながらだましだまし登り、上部へと抜ける。(Ⅳ+)
精神的に疲れたのでシャワークライムの方がまだマシだったのかもしれない。
引っ切りなしに続く滝を越えていくと、右岸からインパクトのある極細ゴルジュが現れる。名も無き支流だが、連瀑となって流入する姿は本流に勝るとも劣らない迫力である。
はるか上部まで凄まじい滝を連ね、単なる支流とは思えない風格を持っている。未遡行性も高いだろう。
次回来る時は、ぜひこっちを遡行してみたいものだ。
あまりの魅力に思わず吸い込まれそうになるが、本流も負けじと一層狭いゴルジュとなり、この先を覗かない訳にはいかない。
屈曲したゴルジュの奥には再び絶望的な6mCS滝が落ち、これでもかと言わんばかりにアカナ沢の試練は続く。
切り立ったゴルジュを塞ぎ、両脇から激しく水を落とすCS滝にやはり容易な弱点などある訳もなく、突破できる可能性のあるラインはわずかに二つ。
一つは釜を泳いで左壁に取り付き、猛烈なシャワークライムをするライン。もう一つは左岸5mほど手前の垂壁から上部のバンドに上がるライン。
シャワークライムは抜けが悪そうで、失敗すれば気が狂いそうなくらい寒い思いをするだけなので却下。
左岸のラインを登ることにする。
壁に埋まった石がホールドとなるが、垂直な上にヌメっているので相当厳しそうである。登攀距離は約7mだが、支点は全く取れないのでフリーソロするしかない。
とりあえず空身で取り付くが、3mほど進んだ所で例の「腕に力入らない症候群」が出始めたので、一旦クライムダウンして仕切り直す。
上部のホールドの状況がよく分からないだけに、沢タビで突っ込むのはあまりにリスクが高い。
傾斜があるので上部まで上がったらクライムダウンは厳しく、もし行き詰ったら落ちるしかない。
各なる上は、念のため持ってきたクライミングシューズの出番である。沢で使うことは滅多にないのだが、この状況では非常にありがたい存在。
やはり沢タビとは比べ物にならないくらい細かいスタンスを拾えるので、腕の力が多少入らなくても安定して登っていける。
上部は思ったとおり悪く、この腕の状況で沢タビで突っ込んでいたら落ちていたかもしれない。(Ⅴ~Ⅴ+)
クライミングシューズを持ってきて良かった。
不安定な傾斜バンドでザックを吊り上げた後、トラバースして落ち口に出る。
再び崩壊壁に囲まれ、前方には砂の塔のようなピナクルが現れる。
右岸から20m程の支沢滝が合流し、「いよいよハイライトの本沢滝か」と思われた時、突如ガスが立ち込め始め、
あっという間に視界が塞がってしまった。
何たる不運・・。一番の見所を失うとは。
足元には膨大な量の土砂が溜まり、両岸の壁が後退していることから、物凄く開けた場所であることは何となく分かるが、前方にあるはずの本沢滝の姿は全く見えない。
ガレを上がっていくと、徐々に滝のシルエットが浮かび始めた。滝下まで近づいてようやく全貌を確認する。
なるほど、異常に脆そうな砂壁の滝である。上部がハングし、直登は到底無理。こうなっては数々の記録で恐怖が綴られている「大鹿落としの高巻き」しかない。
敗退率の高いこの巻きを果たして無事にこなせるのだろうか・・。いよいよ懸念の難所に突入する。
記録では大鹿落しをしばらく上ってから右岸バンドをトラバースするとあるが、下から見る限りではわずか10mほど上部にバンドが見える。
念のため様子を見にいくが、現れたのは幅の狭い急傾斜のザレバンド。全くもってトラバースする気は起きない。
しかもこの高度では滝の途中に出てしまうだろう。やはりこれではないようだ。
「関東周辺の沢」の遡行図では岩壁のマークの間をトラバースしており、地形図で見る限り同様に巻くならば、さらに上へと上がる必要がある。
出合から登高差80mほど上がった所で、右岸にトラバースできそうなポイントを発見。
ちょうど上下の岩壁の間にある緩傾斜地帯(バンドと言えなくもない)で、いくつかの土リッジを跨ぎながらトラバースできそうである。
ここより上部は弱点のない側壁に遮られるので、ここで間違いないだろう。
いよいよ恐怖のトラバースだが、よく見ると傾斜が緩く、土にはまった岩がいいスタンスとなって、意外に易しそうである。とりあえず悪くなったらロープを出すつもりでフリーソロ。
斜面より5m下は垂直に切れ落ち、視界が良ければ高度感抜群なのだろうが、ガスっていていまいち臨場感がない。
たまにガスが薄まると、対岸の崩壊壁が圧倒的なスケールで姿を現す。晴れていればさぞかし素晴らしい眺めであったろうに、残念。
岩が抜け落ちないことを確認しながら100mほどトラバースしてリッジに出る。鹿の足跡も見受けられ、安全地帯に出られたようだ。
回りこんだ先で樹林帯に入り、最後は懸垂20mで沢床に戻る。結局トラバースではロープを出すこともなく、思ったより楽に巻くことができた。
これより先にもう難所はない。予想以上に順調に事が運び、会心の遡行と言ってもいい位である。
左俣に入ってすぐ現れる8m滝を右から直登すると、後は容易な滝ばかり。忠実に流れを詰め、最後にザレを上がるとヤブ漕ぎなしで登山道に飛び出した。
時刻は12時過ぎ。七滝沢を下降する予定なので時間的余裕はない。早歩きで女峰山、唐沢小屋を経て「黒岩遥拝石」 へ。
あとはそこから沢筋へ下るだけだが、稜線から覗き込むと下には垂直の壁が広がり、ガスに包まれているせいかとてつもなく高度感がある。
「こんな所本当に降りられるのか?」と不安は募る一方だが、ここを降りなければ今日中に下山できない。
時刻も15時を回り、時間に追われながら下降を開始する。先がよく分からないので、ヤブを掴んでできるだけ下り、木を支点に懸垂下降。
垂壁にもたくましく生える木がありがたい。
20m、15mの懸垂2ピッチで一旦緩傾斜に降りられた。やたら開けた沢筋で、実際に降りてみると上から見るよりは傾斜が緩くて助かる。
ガレや尾根を辿り、途中2箇所で現れる断層は懸垂下降(20m、15m)で下っていく。
最後に沢筋まできっかり20mの空中懸垂をこなして、ようやく七滝沢本流に降り立つことができた。
辺りはどんどん暗くなり、日暮れが迫っている。広いガレに埋まった沢筋を足早に下り、Y字峡の「黒岩滝」に出る。
一瞬懸垂下降かと思われたが、右岸に古い鉄梯子が埋め込まれていて容易に下ることができた。
ここから先はもう既に全貌が分かっているので幾分か気が楽だ。全ての滝を懸垂せずに下り、まさに日没直前、薄暗い闇に包まれながら下山を終えた。
今回は日帰りにしては詰め込み過ぎな位の非常に内容の濃い遡行となった。
アカナ沢は噂に違わず凄まじい地獄谷を呈し、そんな異空間に身を置けたこと、自分の持てる力を存分に発揮してそれを越えることができたことが何より嬉しい。
シーズン最後の締め括りに相応しい素晴らしい遡行を終え、季節は刻々と移り変わっていく。
しかしもうすでに来年の沢が待ち遠しい。
さて来年はどんな冒険をしようか・・。
巨大な岩が谷を塞ぐ。
早くも側壁は高い。
右岸の岩を登り、梯子は使わず
岩の隙間を通り抜ける。
まるで袋小路に迷い込んだよう。
実際には右に屈曲している。
左岸上部の大岩が印象的な滝。
左壁を直登。
水流沿いの岩は磨かれて
意外としっかりしている。
Y字峡にて七滝沢から落ちる滝。
凄まじいまでの景観。
これを見たら巻きなど考えようもない。
ゴルジュを堰き止める。
危うく絶望に追いやられそうになった。
こんな滝を直登できるのだろうか・・。
落石が来ないことを祈るのみ。
大崩壊壁に囲まれた荒々しい滝。
右岸のボロ壁を登る。
文句なしに格好良い滝。
左壁を直登。
スケールを感じてもらえるだろうか・・。
立て続けに出てくる滝に翻弄される。
右壁水流沿いを直登。
一番手前の岩は右に5m滝が掛かる。
岩の中央を登ったが悪かった。
開放的な空間でひと時の休息。
ゴルジュに掛かる滝。
右壁を直登。
極細ゴルジュに滝を連ねる。
先を覗きたい衝動に駆られた。
果たしてこのゴルジュの奥には
何が潜むのだろう。
現れたのは絶望的なCS滝。
登攀的には一番の核心であった。
上部まで強烈な渓相が続き、
非常に興味深い。
霧の中に浮かぶシルエット。
幻想的だった。
崩壊壁をまとう地獄滝。
直登は考えられない。
このバンド斜面をトラバースする。
足場が崩れたらアウトだ。
来たルートを振り返る。
大鹿落としが壁のようにそそり立つ。
巻き途中のリッジにて。
広大なガレ空間が広がる。
厳しかったアカナ沢も上部は
穏やかになる。左俣に入る。
左俣に入って最初に現れる滝。
ホールドが豊富で人工壁のようだ。
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美しい連瀑から成る。