穏やかな山容を断ち割る深い谷筋。城塞のごとく岩壁を峻立させるただならぬ威容。エビス大黒沢は、赤谷川に数ある支流の中でもとりわけ異彩を放っていた。
短い一支流と言えども谷川きっての険谷。本谷のドウドウセンを突破した今となっては、この山域に残された最後の難関と言えるだろう。
最初の滝を登山道から巻いて入渓する。すぐに現われる6m滝は左壁を登るが、ヌメりがひどく、いきなり緊張させられる。(Ⅳ)
谷幅は急激に広がり、側壁は50m以上。想像以上のスケールに期待は膨らむ。
帯状滝6mを越えると、関門ノ滝20mとなる。
巻きは不可。直登するしかない。傾斜の緩いスラブで一見容易に見えるが、ホールドが乏しくあなどれない。
左壁を登るが、徐々にホールドは細かくなり、核心最後の一歩で躊躇する。とりあえず下を振り返り、現状確認。
落ちれば痛い思いをするだろうが、死ぬほどの状況でもない。今更戻ってロープを出す気もせず、そのまま思い切って一歩を踏み出す。(Ⅳ)
頭上からは明るい日差しが照り付け、暑いくらいの陽気だ。前方には巨大な岩壁となって谷を塞ぐ25m滝。登るにしろ巻くにしろ楽そうなラインは見当たらない。悪谷もいよいよ本領発揮のようだ。
一番美しい真っ白な右壁にラインを見定める。明らかにタビでは厳しく、ラバーソールに変更。
1P目:30m(Ⅳ+) ロープ使用。バンドを左にトラバースし、バルジを直登。硬い岩質のため、中間支点が取りづらい。下部アンカーはハーケン×2、中間支点はハーケン×1、エイリアン緑×1、上部アンカーはブッシュ。
2P目:30m(Ⅲ) フリーソロ。ブッシュ頼りに草付を登り、落ち口へ。
谷は急激に圧縮され、狭いゴルジュとなる。直登できない6m滝は、右の小岩壁にラインを取るが、出だしがハングして悪い。(Ⅳ)
次の7m滝はそのまま巻き、CSの6m滝に遮られる。両岸ハングし、一見どう越えればいいのか悩ましい。
左壁ルンゼを登って落ち口にトラバースするか、水流右を登るか、のどちらかが選択肢となるが、どちらも出だしがハングしている上にヌメって滑りやすい。
シャワークライムを避けるために左壁のラインを選ぶ。
テクニカルな登りからトラバースに入るが、予想通りホールドは悪く、細かいフットワーク頼りのシビアな登攀となる。
落ちても死なない程度の高さだが、大怪我は確実。絶対にスリップは許されない。
最後の最後まで悪いトラバース。緊張のピークと共に落ち口に達した。(Ⅴ)
スケールは小さいものの、弱点のない側壁で形成されたゴルジュが続く。当然逃げ場はない。
曲がりくねって先が見えず、ただ登攀不能の滝が出てこないのを祈るばかりである。しかしそんな願いとは裏腹に、嫌な予感は次第に増幅していく。
突然目の前を岩壁に覆われた。この先に何かがある・・。
左曲した谷を恐る恐る覗き込むと、そこにはあるべきはずの切れ込みがない。あるのはただ岩壁に閉ざされた空間。
水の流れは右上方へと移行し、小さくなった空から30mもの大滝となって降り注いでいた。
まさに絶望の壁・・。
巻くなら右岸の急な草付。しかし直登の選択肢を簡単に外したくはない。右に広がる大岩壁帯が、登攀の可能性を示唆する。
ハーケンを受け付けない岩質と異常なヌメリは、間違いなく困難を強いるであろうが、岩が可能性を提示する以上避けては通れない。
登れるか否か、自分の見積もりでは五分五分といったところだ。
ただでさえ遡行者の少ない谷。おそらくこの滝に挑戦した者はわずかにしかいないだろう。唯一の資料「登山体系」にも「逆層の壁で確保の支点が全く得られない。右岸の草付を巻くのが無難だ。」と書かれている。
沢をやっている以上、未知なるものへの挑戦に燃えない訳がない。
5m上がったテラスにハーケン2本でアンカーを取り、登攀開始。5mほど直上後、正面の悪い垂壁を回避すべく、左のフレークから水流沿いのテラスを目指す。
やはり支点は取りづらく、大きな不安要素として圧し掛かる。この先でもピンが取れなかったらどうするか・・。
滑りそうなスタンスで大胆なレイバックをこなさなければならず、上がってしまえばクライムダウンは厳しい。
躊躇する気持ちを奮い立たせ、レイバックに入る。最終ピンから5mほどランナウト。ようやくテラスに達する。
とにかくまずは支点を取るためのリス探し。
しかしどこをどう探しても見つからない。どうやら不安が的中してしまったようだ・・。
ここから先は右上するしかないが、先が見えず登れる保証はない。これ以上ランナウトを続けるのはあまりにリスクが大きい。
最終手段のクライムダウンも頭をよぎるが、ヌメった岩でのバランシーな下降もリスクが高い。
もう一度支点の可能性を探る。すると一箇所だけカムが決まりそうな水平クラックを発見。ちょうどカムの幅しかないミニクラックだが、エイリアンの青をジャストサイズできめることができた。
普段カムを持参することは滅多になく、今回はたまたま沢での使用を試すために持って来ていた。
まさかこの小さなカム一つにピンチを救われるとは・・。
これで気兼ねなく登っていける。
懸念の箇所を強引なハイステップで通過し、その先も登れることを確信する。
ふと横を見ると、ボロボロに風化した残置ハーケンが目に入った。今回初めて見る残置だ。過去にもこのラインを登った人間がいたのだ・・。
おそらく先人も私と同じく、登りたい欲求と恐怖の狭間で闘っていたことだろう。誰かも分からないが、情熱を燃やしてこの壁に挑んでいた時のことを想像すると、妙な感動を覚えた。
一つのルートを通じ、時を隔てて同じ思いを共有する。
クライミングの奥に見え隠れする真の価値に触れることができた気がした。
ロープ一杯でしっかりとした潅木に辿り着く。(30m、Ⅴ)
2P目は傾斜の緩いバンドを左上し、大滝の登攀を終えた。(30m、Ⅲ-)
滝上もゴルジュとなり、登れそうもない滝が続いている。
そのまま左岸を巻いて、ゴルジュ内を確認しながらトラバース。中俣出合で15mの懸垂下降をして沢床に降り立つ。
地形図を見ると、ここより先でもゴルジュマークが沢筋に入り込み、悪場の存在を否定できない。
「登山体系」の遡行図には、中俣より上で四段60m滝と50m大滝が描かれており、先程通過した滝がそれではなかったのかと愕然とする。
もしそれが本当ならビバークを覚悟しなければならない。
ゴルジュが屈曲する度に、新たな大滝の存在を覚悟する。しかし一向にそれらしきものは現われず、そのまま何事もなく、あっさりとゴルジュは終わりを告げた。
やはり遡行図が間違っていたようだ。何とも人騒がせな。
5m前後の滝が続く源流部を詰め上がり、横切るはずの登山道へと向かう。しかし、いつまでも経っても現われない。
どうやら誤って南の稜線に詰め上がってしまったようだ。
地図を見ず、適当に水量の多い沢筋を上がったのがまずかった。余計なタイムロスで、もはや明るい内に下山はできない。
これで何度目かのエビス大黒ノ頭。ここに来るのも今回で最後だろうか・・。
今まで通った谷川の日々が懐かしく思い出された。
短い支流にしてはスケールがある。
右壁を登る。
傾斜は緩いがホールドが乏しく
見た目より悪い。Ⅳ級程度。
中間でハングし、滝身の直登は不可。
フリーで登る。下部の垂壁部が核心。
左岸を小さく巻く。
右の水流を直登すべきか、左のフェースをトラバースすべきか・・。悩ましい。
この先に何かがある・・。
四方を壁に囲まれ、まるで巨大な
井戸の底にいるようだ。
奇妙なうねりを見せる岩壁。
魔物の胎内を髣髴とさせる。
回収のための登り返しで
登ったラインを見上げる。
見るからに直登は厳しい。
左岸から巻く。
小規模な連瀑帯となる。
直登できず、右岸の草付から巻く。
大した滝もなく、容易に
通過することができた。
最後は快適な登攀で
高度を稼いでいく。
詰めを誤って、南稜に出てしまった。
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左壁を登るが意外に悪い。